駄文・中心を求めるココロ


駄文ですが。


中心を求める心。

----------------------------------------------------------------------------------

たとえば、国には首都があります。
町には市役所があり、繁華街があり、国によっては広場だの教会だの寺院だのがあります
そこを中心に人は動き、集まり活動します

つまり
人の住むところには
「中心」
と措定される場所が存在します

そこはまた権力の存在する場所だったりもするわけ・・・・・ですが
ここでは関係ないので深入りはしません



さて
各人それぞれの生活においては、いわば
「自分」
中心なんですが、ていうかそれ以外はありえないわけですが、
誰も彼も、自分とは別個の
「世界」や「世間」を感じています

ここでいう「中心」とは、
いわばその「世界」や「世間」に属するものです



「このあたりの地域の中心」
「このあたりの地方の中心」
「この国の中心」
「この世界の中心」



当たり前のように考えてますが、果たしてこれはあたりまえか?

当たり前ですが、
これはいわば人間社会の構造であって、人間だけのものです

犬やネコ、ハトやカラスやイルカやペンギンには一切関係のないもの
植物にも昆虫にも関係ありません

いわば人間独自の社会的な虚構です
でも現実に機能してるわけですから、虚構というよりは制度なんですが



この
「中心」を作り出すという人間のココロ

中心を造りそこを文字通り中心として営まれる人間の生活
これは空間的経済的意味だけでなく、社会的精神的宗教的にも及んでます



だから
悪い意味で、人間の人間たるものが滲み出る
それが「中心を求めるココロ」です


----------------------------------------------------------------------------------


我々人間は、もうどうしょうもなく人間であって、人間でしかありようがない
しかし、人間は人間でしかないのだけれど
じゃあそれを自覚してるかというと、恐らくは全く自覚していない

その意味では人間は犬やネコやカラスと全くの等価です

自己の自己たるその限界性を全く認識していないのだから
万物の霊長たる、とかってうそぶいてもどうしょうもない
犬よりネコよりカラスより、手先や小知恵が働くだけで別に賢くも何とも無い

己を知らずしてな〜にが万物の霊長か


----------------------------------------------------------------------------------


「中心を求めるココロ」

それは多分集団生活をするサルであるヒトの習性に基づくもんなんでしょう、たぶん
「群れの中心」や「ボス」といったものから発生したのかもしれないし
「ナワバリ」といったものに起源しているのかもしれない



ともかく
「中心を求めるココロ」

その悪い点は、自分達の外にまで
「中心を求める」
点にあります



----------------------------------------------------------------------------------

たとえば
町や国には中心はあります
県庁や国会、大統領や首相、将軍サマ
町なら鉄道の中心駅、バスターミナル

もしこれらが無くなれば、その国や地方や町は機能がマヒしたり混乱したりするわけですが



さて


皆さんは森に中心があると思いますか?
答えは「否」です

たとえば白神の森
あれはたとえば、白神の森の一部10ヘクタールの森は、白神の森全体よりは貴重ではないが、
劣っているわけではない
それは一部です
いわば等価とはいわないが、等価のようなもの

別の言い方をするなら、
森とは、その構成する木々は別々のものではなくお互いに共存しあっている存在なので、
どの部分がどの部分よりも優れているとか劣っているってのはないわけです
(伐採後の2次林とかは別ですよ)



中心がある、という考え方は
この逆です

どの部分かが貴く、どの部分かが劣っている
それが中心がある、という考え方です

もちろん中心が貴く、周辺が劣って卑しいわけですが



この考え方はやはり、サル山のボス猿的発想から生まれたのかもしれませんね


----------------------------------------------------------------------------------

人間ってのは、賢いですが愚かなので
どうしょうもなく人間なので
自分達が「サルの一種である」自覚が全く無いのです

この点で、愚かにも世界を自分達の流儀に捻じ曲げて考えてしまうのです



例えば海
海に中心はあるでしょうか?

あたりまえですが「否」です



物理的に考えても、巨大な水たまりである海に「中心」などあろうはずもありません
森と同じです

全ての海は繋がっていて、全ての海はお互いに依存して支えあっていて(水位を)
全ての地域の海は等価です

まぁ、生物層が豊富だの栄養塩類が豊富だの貧弱だのよく荒れるだのの、「違い」はありますが



しかるに人間サマは
つい「竜宮」なんてものを考え信仰しちゃったりするわけで

「海の底に海を統べる神さまがいてその宮殿がある」
なんてのはまさしく、海を自分達の感性でとらえてるわけです

今ではそんなことはないさ、あははは〜、と笑えるかというと、そうではない
別に自分達が人間であることのその人間のあり方そのものに気付いてそう思い立ったわけでは全然ないから



だから

先の白神山地の例では
白神山地のなかに通称「マザーツリー」なんてのが出現したりするわけです
樹自体にとっては関係のない話ですが、
「マザー」だってさ。笑かしてくれます
すぐ「中心」を措呈したがるよね、人間って
ほんと、人間って愚か者


----------------------------------------------------------------------------------

「中心を求めるココロ」

だからによって、古来からの難題である

「神がいるかいないか」

ってのも、この人間が人間であるという限界性を全く意識せずに議論すると、
全く愚かさの極みにならざるを得ないわけです

それを自覚せずに議論するのはつまり
平たく言えばそれは宇宙と神とを
「サル山とそのボス猿」
に歪曲・矮小化することにほかなりませんから




神が居るか居ないかはおいておくとして
(ここの主題ではございません)



アメリカあたりで流行ってるというID(インテリジェンス・デザイン)とやら呼ぶ進化論の反仮説
これなんかはここの議題に当てはまりますな
曰く

「自然界の多種多様な生物は、きっと設計者がいるに違いない」
という考え方

アホですな

「設計者=神」なんでしょうが、別の言い方をすれば「中心」であり「ボス猿」です
人間世界のありようを、そのまま天地自然時間宇宙にまで敷衍しちゃう考えです
愚かな。


猿の一種のクセに、己が猿であるのを忘れた発言
論外です

まぁ「創造説」によれば、人間は人間でサルではない、というんでしょうが・・・・・

”人間はどうしょうもなく人間であって、どうでょうもなく人間の考え方をしてしまう”
という自覚の全く無い方々が何を言うても

ばかばかしい

の一言に尽きます



神が居るかどうかはしりませんが、これはいえます
「設計者なんぞおらん」

いわば歴史学の陰謀史観と一緒

己を知らずに世界を語るものに災いあれ


----------------------------------------------------------------------------------

ここらへんから進化論と聖書の創造説方面にからんでいくとややこしくなるので深入りは避けたいですが
個人的には神が居るとしてもそれは別に
「ヒトの形をしていない」
と思っています

が、
これ自体が聖書創世記に反してるので、やはり深入りは避けたいと

別に無神論者ってわけではないですが、
「人間の人間たることを自覚してない」
方々とは話したくないし

ど〜せ聖書も人間の書いたもんだし。古代のラビとか。
賢いラビや小ざかしいラビとかいたみたいだけど



現代人は自分を古代人より賢いと思ってたりするようですけど
それもきっと間違いで。

己の「人間たる」を自覚してた先達・先賢たちはたくさん居ます
世界の外とか神とかに対しても。

「ここより上は我々は昇って知ることができない。だがそれは我々が人間だからであり、この天井は人間だけのもの。
 人間以外であればこの天井よりもさらに上へ昇って知ることができるであろう」
顕教ではない先賢たちは自覚してたようです

「天上の左向きの顔」がヒトの顔なのもそれはきっと、
我々がヒトであるからに他ならないでしょう

イヌがこの高みに昇って仰ぎ見たなら、そこに見るのはきっとイヌの顔


己を知らずに世界を語るものに災いあれ

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送