メキシコ・メヒコ州・テオテナンゴ遺跡
Piramides de Teotenango, Mexico, MEXICO

2002年11月 / Noviembre, 2002

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場所:メヒコ州トルーカ市の南約25km、テナンゴ・デ・アリスタ村の西側、テテペトル丘の上

時代:紀元後7世紀〜紀元後15世紀中ごろ
最盛期は紀元後8世紀〜11世紀

性格:城塞都市遺跡

民族:マトラツィンカ

材質:石材

アクセス:トルーカ市内からバスがテナンゴ村(テナンゴ・デ・アリスタ)まで出てます。
「テオテナンゴ」と言わずに「テナンゴ」と言った方が通りが早い
「ラス・ピラミデス」といってもわかると思う
約30分くらいか。そのうち国道55線から見えます

テオテナンゴ遺跡はトルーカ盆地の南、
テナンゴ村の丘の上にある大城塞都市遺跡である。
規模は大きく、東西約1km、南北約1.5kmにもおよぶ
ミニ・テオティワカンとでもいうような雰囲気の都市遺跡

遺跡のある丘の名前はテテペトル。アステカの言語ナウアトル語で「石の丘」の意味
下の盆地との標高差は約100m。登るのはけっこうしんどい

遺跡の名前のテオテナンゴTeotenango)の意味は、
同じくナワトル語で「神聖な城塞都市」の意味
Teotl : 真の・神聖な、Tenamitl : 石塁、Tenango : 場所)

テナンゴ遺跡のすぐ東隣のテナンゴの町(村)は、スペイン征服後に
このテオテナンゴの住人たちが移り住んだ町





 テオテナンゴ遺跡の最初の時期は紀元後6世紀〜11世紀半ば(1047年)
この遺跡の最盛期でもある(紀元後8世紀初頭〜11世紀半ば)
この遺跡は初めから城塞都市の意図をもって建設され、神殿のほかに集合住宅、そして球技場(ショチカルコ型)もあった
この時期の建築には羽毛のある蛇の神・ケツァルコアトル神の彫像が見られる
また、人身御供の跡も見つかっている。



 次の時期は紀元後11世紀半ば(1047年)〜15世紀後半(1474年)
1044年、弓矢を持ったチチメカ系の民族(エストラピクティン族)がテオテナンゴ周辺に侵入、
1047年、テオテナンゴ陥落
(クルワカン市創設に関するメモ、著者:チマルパイン − スペイン植民地時代の文献)
発掘資料からも神殿や彫像の破壊跡・住民の死体・火をかけられたらしい火災の跡が見つかっている
これによりテオテナンゴの支配者が交代
この征服以降に建てられた建築物は前代に比べて技術が退化しており、お粗末

また、この時代の遺物の特徴は金属製品(主に銅器)や矢のである
(コロンブス以前のメキシコでは、ついに鉄を知ることはなかったが、金属文化は部分的には知られていた)
また、タバコのパイプなども出土している
(アメリカ大陸の喫煙文化は、パイプ式:ミチョアカン州や北米、キセル風式:メキシコ中央部、葉巻式:マヤ地域、に分けられる)



その次の時期はアステカ帝国の時期(1474年〜1521年)
1474年、トルーカ盆地にアステカ王アシャヤカトル王が侵攻、
当時マトラツィンコと呼ばれていたこの地方の王国を征服した
このとき、このテオテナンゴやカリストラウアカなどの都市が侵略され、11世紀の時と同様神殿は破壊され火をかけられた
そして都市の支配者もアステカ人に代わった
北端にアステカ人が住んだらしい遺構も発見されている



そして最後の時期、スペイン人の到来(1521年〜1582年)
スペイン人と反アステカ民族の混成軍がメキシコ各地を征服、テオテナンゴも再度征服をうける
そしてこのテテペトル丘のすぐ下に新たに植民地風の町(テナンゴ・デル・バイエ)が建設され、ついにこの城塞都市は放棄される
しかし、しばらくは先住民マトラツィンカ人達はテオテナンゴを墓地として利用していたらしい






引用した本 : 大井邦明 「ピラミッド神殿発掘記」  朝日選書

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テオテナンゴ遺跡 その1 / Primero
テオテナンゴ遺跡 その2 / Segundo
テオテナンゴ遺跡 その3 / Tercero
テオテナンゴ遺跡 その4 / Cuarto
テオテナンゴ遺跡 その5 / Quinto
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