ケレタロはメキシコ中部ケレタロ州にあるコロニアル都市
標高は約1850メートル。メキシコ・シティーより約400メートル低い
1996年世界遺産指定
世界遺産指定を受けただけあって街並みはきれいで情緒があります
でも個人的には、モレーリアのほうが好きやし美しさはグアナファトには及ばない
周囲に遺跡もないし今では先住民もおらず民芸品が多いとかいうわけでもない
中途半端
メキシコ・シティーからはバスで約2時間半
ケレタロはメキシコ独立史上の舞台になったところのひとつ
歴史
ケレタロの創設は
1531年
聖ヤコブの託宣によって創設されたことになっている
(記録上は1531年7月25日)
しかし・・・この種のご託宣の伝承はプエブラ市にもあるので、いささか眉ツバ
プエブラと同様に託宣でもって町の場所が決められたという伝説のあるケレタロ市
初期の歴史もプエブラ市とよく似ている
つまりこの町も
ヌエバ・エスパーニャ初代副王アントニオ・デ・メンドーサにより、
やはりプエブラ同様、先住民とスペイン系白人移民との共存都市を理念として建設された
サン・フランシスコ聖堂を挟んで西にスペイン系白人移民居住区、東側に先住民居住区がつくられた
最盛期は
17〜18世紀、
そのころにはメキシコ市、プエブラ市に次ぐ
第3の都市であった
ケレタロは他の有名なコロニアル都市のタスコやグアナファトと異なり、タバコや織物などの産業で栄えた
タバコは新大陸が原産地であり、先住民の産業である
つまりケレタロは先住民の伝統産業(織物も然り)でもって繁栄したのである
やがて
18世紀末、有力都市のケレタロにはヨーロッパの
啓蒙思想が流れ込み、
メキシコ生まれのスペイン人たち
(よく考えたら述語矛盾じゃないの?これ)
の
クリオージョたちは、啓蒙思想の影響のもと
独立運動を画策し始めた
当時メキシコの行政は
スペインから来たスペイン人(
ペニンスラールという。イベリア
半島人という意味)に
すべて牛耳られていた
つまり独立運動は、スペイン系の人間同士の内紛とでもいうべきもので起こった
(メキシコという国民の成立とその政治への参加はメキシコ革命を待たねばならない。つまりさらに100年後)
当時のヨーロッパはフランス革命〜ナポレオンの台頭
やがてイベリア半島へナポレオンが侵攻、スペインの新大陸への影響力が一気に弱まった
1810年、ある独立運動の組織で
「12月8日の武装蜂起」が計画された
しかしこの計画は発覚、
9月13日、極秘に首謀者に逮捕命令が下る
この時メンバーの1人の地方長官のその妻
ホセファ・オルティスは計画の発覚に気付き、首謀者
イダルゴ神父に連絡
ミゲル・イダルゴ・イ・コスティーリャ神父は急遽予定を繰上げ、
9月16日、近郊地元の
ドローレス村(現在の
ドローレス・イダルゴ)で武装蜂起を決行するのである
これがケレタロが歴史の表舞台に出た最初
次は、
19世紀後半
アメリカ合衆国が南北戦争の頃、
メキシコは既に独立していたが、経済的にも内政的にも不安定が続いていた
メキシコではいたるところの町で通りや学校に名前がつけられている先住民出身の大統領・
ベニート・ファレス
彼は数々の
レフォルマ(改革)を行ったが、その中の政策の一つ、
1861年の
「対外債務支払停止」が災いを招いた
これを口実にフランス軍の武力干渉を受けることとなったのである
当時フランスは第二帝政のナポレオン3世の時代
1863年、フランス軍がメキシコ・ベラクルスに上陸、メキシコ市に侵攻
大統領
ベニート・ファレスは首都メキシコ市を放棄、臨時首都をはるか北方の
サン・ルイス・ポトシ市に遷した
翌1864年
フランスは、
メキシコ皇帝マクシミリアンを擁立し、ベラクルスよりメキシコ入りさせる
2年後、駐留フランス軍が撤兵
さて、
メキシコ皇帝
マクシミリアンは人心を掌握しようといろいろな改革法案を発布するが
それが彼にとっては裏目に出た
マクシミリアン皇帝の擁立はもともとフランスの
ナポレオン3世の肝いりだが、
それはメキシコ国内に手引きする派閥があってのことだった
それは、
ベニート・ファレス大統領と敵対していた
国内保守派である
レフォルマ(改革)を敵対視して皇帝を擁立したのに、その皇帝が政治改革案を提出したらどうなるか
・・・・・いてる意味ないやん
かくして
皇帝マクシミリアンは
国内保守派からも見捨てられ孤軍奮闘することに
その間に
ベニート・ファレス大統領は北方から巻き返してくる
ついに
皇帝マクシミリアンは首都メキシコ市を放棄、
9000の兵とともに
ケレタロの
サンタ・クルス修道院に立てこもった
しかし
ベニート・ファレス率いる
自由派革命軍4万の前に捕えられ、
1867年6月19日、ケレタロ郊外
セロ・デ・カンパーナス(鐘の丘)で処刑された
これがケレタロが歴史の舞台になった2度目