プエブラの歴史 (征服初期中心ですが)


1531年に創設されたプエブラ市
設立当初の正式名称はPuebla de Los Anjeles、プエブラ・デ・ロス・アンヘレス
(現在はプエブラ・デ・サラゴサ・エロイカに改称)
スペイン人コンキスタドーレス(征服者達)のエルナン・コルテス一行がメキシコ湾岸に上陸したのが1519年
当時のアステカ帝国の首都テノチティトランを陥落させ征服したのが1521年
プエブラ市が創設されたのはそれからわずか10年後である。


現在のメキシコ市のあったところにはアステカ帝国の首都の島、テノチティトラン島(テスココ湖上の島)があり、
メキシコ市はその上に建設されていったわけだが、
このプエブラ市の場合は、征服当時、何もなかった

当時この周辺の都市としては、このプエブラ市近郊(西へ12km)のチョルーラ
(当時の人口は約10万人という。コルテスによる虐殺事件で有名。6千人が殺されたという)や、
コルテスアステカ王国征服に対し、反アステカ感情から同盟軍としてアステカ打倒に協力したトラスカーラ族の町トラスカラ
(プエブラの北約40km)や、カルパンなどがあった。
だから、先住民支配のための地方拠点を設けるならば、チョルーラなりトラスカーラなりが適当であった

しかし、現在のプエブラ市の位置にプエブラ市が建設されたのは、
メキシコ市ベラクルス市を結ぶ街道上にあることと、メキシコ市の防衛上からであった。



1531年
ヌエバ・エスパーニャ初代副王アントニオ・デ・メンドーサにより建設されたプエブラ市は、碁盤の目状になっている。
これは、人工的に作られた計画都市だからである。

だいたいメキシコの都市はプエブラ市に限らずその多くが碁盤目になっている。
これは、当時これらの都市を建設したヨーロッパ人(スペイン人ないしはカトリック圏のヨーロッパ人)の意識が
反映されているからである。
16世紀、ルネッサンス時代のヨーロッパでは、歴史的経過として発展してきた都市のいろいろな問題が生じていた。
人口増加による都市の無秩序的発展と、それをつつむ城壁の限界。
それらの問題に対しては幾つかの理想的・理念的モデルが考えられていた。

つまり、メキシコ諸都市の”碁盤目状の都市プラン”は当時のヨーロッパの都市をモデルにしたものではなくて、
当時の”都市の理想形を形にしたものだったのである。

この点、メキシコ諸都市がいくらコロニアルでヨーロッパ的であっても、その原点はずいぶん異なっている。



さて、1531年に建設されたプエブラ市は、防衛拠点や街道中継地としての意味もさることながら、
当初農業生産基地として建設された都市であった。

というのも、征服当初コンキスタドーレス(征服者たち)が得られる農業生産物とは、
トウモロコシかぼちゃジャガイモなどの”新大陸の農産物”ばかりであり、
ヨーロッパ人の必須食料の一つ小麦ではなかったのだ。
だから緊急に小麦を生産する農業拠点が必要だったのである。
そのため当時は一定区域内への放牧による畜産業者の侵入を禁止している。

また、当時のメキシコの社会情勢として、
ヨーロッパ人による暴力的先住民支配(エンコミエンダ制度やレパルティミエント制度)が幅をきかせていたが、
それに代わる政策も試行的に施行された。
スペインからの白人植民移住者も、スペイン本国において妻帯者の農業経験者を募集し、
区画整理済みの土地無償貸与先住民の家族と交互・対等になるように振り分けた。
さらに一定期間の後に所有権を譲った。
必ずしもプロットどおりに運営されたわけではあるまいが、
今でもこの時移住した先住民の子孫がまだ住んでいるくらいなので、
ある程度実効的にこれらの施策は運営されたらしい。

これは16世紀当時の人文主義思想を反映したもの。このあたりの状況も都市の設計思想とパラレルである。
一部の心ある知識人たちは、新大陸にヨーロッパ人と先住民が仲良く共存する理想郷を建設することを考えていたのだ。
(人文主義思想:人文主義思想が濃いのはフランシスコ修道会)

(妻帯者:当時のメキシコにおける白人の男女比は恐ろしくアンバランスであり、
聖職者がそのモラルの低下を嘆くほどであった。
聖職者を除くほとんど全てのヨーロッパ人は現地妻を持ち、有力者は召使いやら女中やら片端から手をつけた。
というのも征服当初のメキシコにいた白人男性は約1万5千人
対し白人女性は16世紀後半に到るまで毎年30人程度しかメキシコに渡ってこなかった。
それもほとんど有力者の妻として。
15000 : 30
白人男性がインディオ女性に手をつけまくったのもむべなるかな。
そしてこれが現在の1億メキシコ人のうち90%を占める混血者メスティソの起源となるのである



このように西欧的な理念に基づいて建設されたプエブラ市
当初は人口も少なかったが、やがてメキシコの植民地建設と運営が軌道に乗ってくるにつれ、
征服当初司教座が置かれたトラスカーラ族トラスカーラ市の重要性が低下、
司教座16世紀後半にはプエブラ市に遷った。

プエブラ市ではトラスカラ市から司教座が遷されるにあたり、ソカロ横に大聖堂が建てられた。
この大聖堂(カテドラル)は、他のメキシコ諸都市の大聖堂が100年や200年かかっているのに対して建設期間が比較的短く74年
1649年に完成
ただし、内装や祭壇は後の時代のもの
確かプエブラフランシスコ修道会縄張りだったと思う


また、最初から生産と実務の町として出発したプエブラ市は、移住白人と先住民の混血も早く進んだ。
そのためか、現在では保守的な地域として知られている

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