熊本県、オブサン古墳
La tumba que se llama Obusan,
en la provincia de Kumamoto

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チブサン古墳 / Tumba de Chibusan

次がオブサン古墳
これもまたすぐ近くにあります

チブサン古墳が国指定の史跡なのに対し
オブサン古墳は県指定
国指定と県指定ではグレードが
いきなり2つぐらい下がるのが一般的ですが

立地は丘陵地
ちょこっと古墳の頭が見えてますな

らしすぎるくらいにいい感じの入り口

中は部屋が3つ・・・やったかな
手前は入れるけれども
間にたぶん古代紋様をイメージした格子があって
そこから奥は入れません

にしても・・・・・チブサンといいオブサンといい
どっちも印象としては
移民してきた「古代韓国人」の墓という感じがする
これは日本人のじゃないや
混血すらしていたとは思えない(私の印象は、ですよ)
韓半島の文化を直接持ってきた感じ

ここから時代が下がり
韓半島とは別の道を歩みだして別の文化を生み出していくんやろな

なんしか、畿内の古墳とは印象が異なる
畿内の古墳も韓半島の香りがしてはいるけれども
舶来の先進文化を持ってきました、取り入れてみましたという感じのよな
それに対してここのそれは民族性・民俗性を感じる
舶来とかそんなんじゃなくて


九州って韓国系・半島系文化の香りを濃厚に感じます
特に九州の北半分(福岡・熊本・大分と宮崎の北半分)

てか
(九州の北半分は)古代に関しては韓国系移民の文化以外は皆無というてもいい感じやねんけど
もしかして弥生時代以前の九州北半分って無人の原野だったの?
と思うくらい
古代九州は韓国人の植民地。そういったほうがしっくりきます
韓国系の民族集団しかいなかったのか?










思うんやけど、
弥生時代(紀元前4世紀とか2世紀とかの頃)に今の日本語・日本民族が
韓半島からの渡来系民族によって
(現在の韓国民族の兄弟ではなくて、ハトコくらいの民族。
古代の朝鮮半島に現在の韓国民族の祖先・韓国語民族しか存在しなかったと考えるのは無理がある。
多民族のモザイク分布だったと考えるのが自然やろ)

現在の北部九州を中心地として誕生したとして
それがそのまま邪馬台国あたりまでは続いてたとして
その後
朝鮮半島の内乱・動乱(高句麗と百済の)とかで半島系移民が大量に押し寄せてきたんやないかな
それで一時的に九州北部は韓国系住民しか居なくなったんやなかろか
そんな気がする

んで、北部九州から追い出された原・日本人流民が南九州・宮崎を拠点として再編され、
大挙して近畿へ流れ込み畿内を征服、
それが「神武東征」なんじゃなかろ〜か

そのとき追い出された人たちの一部が東へ流れ山陰・出雲に到って
出雲王朝を征服した(国譲り)のかもしれないし
また、
そのとき追い出された人たちの一部はさらに南方海上へ移住していき
それが沖縄人へと連なってくんやないかな?
沖縄語と本土日本語の分化した年代は言語年代学的には
1700年くらい前頃(紀元3〜4世紀あたり)
らしいし、年代的には不自然ではない



んでもって、さらにその後の大和朝廷による日本統一後、
北部九州を居住地としてた後発移民の韓国系民族(安羅国系の民族やないかな)を同化して取り込んでいく途中で
その故地も同様に意識上日本に組み込まれたんやないかいな?
それが「伽耶・任那」なんやないかな

見事に塚
「指輪物語」の「旅の仲間」の塚山丘陵のイメージ

この古墳は壁画なし
石室は苔むしてます

なるほどこれは県指定史跡
ちょっと保存に差がありすぎではないかな

外には説明版があった

チブサンと同じくこの古墳も
「産」に関する民間信仰の場所になってたらしい

オブサンとは「産む」に関連する語「オブ・オプ」の
派生語・訛語でしょうな

同じく外にあった入り口を塞いでた入り口石

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