京都・清涼寺
Seiryo-ji, Templo Budista

京都 / Kioto (Kyoto)

清涼寺

通称が嵯峨釈迦堂
ただしくは五台山清涼寺



ここの寺院は、本尊の清涼寺式とよばれる釈迦如来立像で有名
日本三如来のうちのひとつ
三国伝来(インド〜中国〜日本)の「生身の釈迦如来」と呼ばれている

直接には10世紀、中国にあったインド伝来の釈迦如来立像を摸刻し
招来したもの、という



由来伝承は以下

昔、お釈迦さんが母親の摩耶夫人(まやぶにん)に仏法を説くがために
天上界・刀利天へ昇った
その時、
王の優填王(うてんおう)や弟子達は、釈迦の不在を嘆き哀しんだ
(亡くなったとか行方知れずになったとか思うたってことかな?)
それで優填王は、毘首褐摩に命じて
香木の栴檀の木でお釈迦さんの生き写し(生身:しょうじん)の立像を作らせた
90日たってお釈迦さんが天上から戻ってきた時に、この像を見て
「自分が入滅した後は、この像が私の代わりに衆生を度するであろう」
というた、と



それが後に中国へ渡ってきた、との話
それを摸刻したものが海を越えて日本に至り・・・・・
ということです


今は学問としては、の仏教が進んで
初期仏教の段階では仏足石や転法輪は造られ刻まれたけれども
仏像は造られなかったのが判っている

仏像が造られるようになったのは、釈迦入滅後数百年経ったガンダーラ朝時代

その意味では、上の伝説はいわば
「だったらいいな♪」
的な期待と願望が生んだものでしょうけど



でも、こちらのこの清涼寺式釈迦如来立像、
微妙に古代北西インド・ガンダーラ風な面影を残しておらんでもない、と思う
中国風とは違うエキゾチックさは確かにある

アタマでっかんで、造り自体はかなり中国化してはおるけどね〜


今でこそここの釈迦如来さんは
お寺の中で鎮座ましましてるけども、
江戸の昔はそれこそ全国行脚で引っ張りダコやったらしい
(出開帳/”でがいちょう”といいます)
そのため全身に傷がある
江戸の昔の出開帳に全国津々浦々の善男善女が投げた銭による傷だという



今では国宝ですからそんなことでけませんが、
信仰とはどういうもんかを考えさせられる

額縁やガラスケースに入れるのは信仰とはいわん、ということやね

その1 / Primera

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