京都・智積院
Templo Budista, Chishaku-in

京都 / Kioto (Kyoto)
智積院
(ちしゃくいん)

京都市の東山の麓、
京都国立博物館や三十三間堂も近い
七条通りのどんつきあたりにある大きなお寺です





真言宗智山派の総本山

末寺は
関西でも名を知られてる成田山新勝寺、
関東で有名らしい川崎大師、
関東では有名らしい高尾山薬王院
など

徳川に縁があるせいか、関東方面に強いのかな





真言宗は弘法大師・空海に始まるけど、
その中の智山派は興教大師・覚ばん上人が興した教学による一派
覚ばん上人が活躍したのは高野山
そして和歌山の根来寺
墓所も根来寺にあります

その智山派の総本山がナゼに和歌山の根来寺にではなく
京都のこんなとこにあるかというと





根来寺は
戦国時代に鉄砲衆として名を馳せた戦闘集団

秀吉に逆らって全山焼き打ち(1585年)にあってしまって

でも、難を逃れた学僧もいたわけで

それが根来寺・智積院の玄宥僧正
難を高野山にさけ、そして京都へと居を遷しながらも
法灯を継いでたわけです

そして関が原があり、大阪夏の陣・冬の陣があって
豊臣家が滅ぶと同時に家康がここにあった寺を寄進した、というわけです

なので寺名は法灯を継ぎ智積院なわけ



この時家康が寄進した寺は名前を
祥雲禅寺

といい、豊太閤秀吉公が亡き愛児・鶴松の菩提を弔うために立てた寺

この秀吉ゆかりの寺を、
秀吉が焼いた根来衆の門徒に与えるってのは、もうあからさまな嫌がらせというか
秀吉の顔を潰しにかかったもの
あるいは呪詛

ここの寺宝として有名な長谷川等伯の障壁画は、
この祥雲禅寺時代のもの
いわばもっけの幸い



今でこそ長谷川等伯というたら
押しも押されもせぬ桃山時代の有名絵師と思われてますけど
江戸時代には無名で、
ここの障壁画も等伯ではなく狩野派の誰それが描いたもの、とされてたとか

なので研究者が研究の末
「これは狩野派ではなく長谷川等伯という絵師が描いたんです」
というたら
「失礼な!あんたはうちの寺にケチをつけるんか」
と怒られたとか

ちょっとウロ覚えなんで不正確なんですが
何十年か前まではそんな状況やったそうです


それが。

今では。

寺宝館まで造って、あーた

手のひらを返す、とはこういうことをいうのかね



また
有名な豪壮磊落なお庭も
やっぱり祥雲禅寺時代の作庭が基本形





あんましこういうと叱られそうですけど、
家康、
いいもんくれたね
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