ホンデュラス・コパン遺跡 / Ruinas de COPAN, HONDURAS

1997年 / 1997

場所:ホンデュラス共和国
西部コパン州の国境近く

時代:紀元後5世紀前半〜紀元後9世紀前半
マヤ古典期

性格:都市遺跡

民族:マヤ系

材質:石材

1980年、世界遺産登録

コパンはマヤ文明の代表的遺跡のひとつ

位置としては当時のマヤ文明圏の東端に位置するにも関わらず、
”高浮き彫り”と呼ばれるマヤ芸術最高峰の彫刻様式を生み出したことで有名
また、数あるマヤ遺跡の中でももっとも綿密に調査された遺跡でもある



この地域はカリブ海へ流れ込むモタグア河に沿って交易が行われており、
コパンはその交易の富を握ることによって繁栄していた

コパンはその最盛期には、マヤ世界の4つの最強国家のひとつであり、
コパン王はこの地域では唯一、マヤの高位の王の称号

「オチキン・カロームテ」

を称していた
(残りの3つは”パレンケ・ティカル・カラクムル”)

また、
コパン遺跡の本来の名は、「オシュ・ウィティク」という





このコパンの遺跡は、マヤの歴史とその政治の解読のヒントが発見された場所でもある

ひところマヤ文字は、「全体の4分の1が解読された」などと云われてた
これは要するに碑文の4分の1、”日付”のことであった
日付の読み方以外はまるで解っていなかったのが実態

日本史で例えて言うならば、
「1600年9月15日、関が原において徳川家康が豊臣の軍勢を破った」
という石碑があったとしよう

ひところはこの文章のうち、
「1600年9月15日」
の部分しか読めてなかった
これでは読めたとはまるで言えん

本格的なマヤ文字解読は、
ロシアのユーリ・クノロゾフがマヤ文字に発音を表す機能があることに気付いてからである

文字なんやから当たり前みたいやけど

その後の研究によって、マヤ文字があらわしていた言語もわかってきた
その言語はいちおうチョラン語と呼ばれている(仮称)
(その言語に近い末裔はチアパス高地に住んでいるチョンタル語など)



そして1958年、研究者ハインリッヒ・ベルリンがこのコパンの碑文Aに、
”紋章文字”と呼ばれる文字群を発見した
古代のマヤの都市国家はそれぞれ”紋章文字”という「紋章」をもっていたのだわ

これがマヤ文字によるマヤの歴史・政治解読の糸口となった

最近の研究では,
先の日本史の例えで言えば
「1600年9月15日、XX原において徳川X康が豊Xの軍勢を破った」
ぐらいは読めるようになっている。




コパンの歴史

コパンのあるコパン谷は、コパン王朝以前からすでに町が存在していた
ここにコパン王朝を開き現在のコパンの遺跡を創設したのは初代王、
”キニチ・ヤシュ・クック・モー”(クック・モー・アハウ)
という
(西暦紀元後426年9月5日即位)





・・・・・すごいね。最近のマヤ学の発展ぶりは。
20年前の水準からしたら驚くほど
名前も(正確ではないとはいえ)判ってきたなんて





このヤシュ・クック・モー王
碑文に拠ると、コパンを遠く離れた場所で即位した

つまり、
現グァテマラ・ペテン地方に存在した大都市国家”ティカル”同様、
テォティワカンによる”征服”のような形が行われたらしい

ただし、
このヤシュ・クック・モー
ティカルを征服した(西暦紀元後378年)テオティワカンの将軍”シヤフ・カック”とは異なり
メキシコ人ではなく、どうやらマヤ人であったらしい

これらの出来事はどうやら、メキシコのテオティワカンによる、
ペテン地方征服後の新体制を受けていたようである

多分、
テオティワカン=ティカルの政治的傘下にコパン谷が入ったということなのだろう
そのようにしてヤシュ・クック・モーはコパンの王になった



また、
コパン王ヤシュ・クック・モーは
即位したその3日後、同様にコパン以外の場所において、
周辺諸都市の王たちに位を授けたという
いわば中国の「柵封」のようなもの

そのなかには、
コパンと深い因縁を持つことになる都市”キリグアー”の王も含まれていた。

このヤシュ・クック・モー王が周辺の有力者に位を授けた場所は、”王朝創始の家”という
もしかしたらそれは”ティカル”にあったのかもしれない





都市国家コパンはその後13代目の王、
”ワシュクラフーン・ウバーフ・カウィール” (別名18ウサギ)
(在位:西暦紀元後695年7月6日〜738年4月29日)
の時代に最盛期を迎える

今日のコパン遺跡の多くの建造物を建てたのはこの王である
”神聖文字の階段”の建設を手がけたのも同じくこの王
同様にこの時代にコパンの芸術様式は完成した

だがまた、コパン破局と没落もまたこの王の時代であった



西暦後・738年4月23日
コパンの従属都市であったはずの都市”キリグアー”が、この王を捕らえたのである
これは都市国家キリグアーの反乱であった

そして4月29日、ワシュクラフーン・ウバーフ・カウィールは斬首された
(コパンの石碑においては戦場で命を落としたことになっている)

その後もコパン自体は存続するが、
キリグアーに一時的にせよ支配され、キリグアーにモタグア河の交易権を奪われ、
その繁栄は完全には戻ることはなかった

そして、
その後の異民族侵入によるマヤ世界の混乱と、人口増加の自然破壊により、
第17代王、ウキト・ト−ク王(822年即位)を最後の王としてコパンはその歴史に幕を閉じることになった

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